blog〝評論らしき某日〟

読書を生かじり。映画を生かじり。JAZZ・SOULを生かじり。いささか恣意的な、おのれの理解を深めるための実験中ブログ

Christmas Day/Forecast Featuring J.S. Floyd

 Christmas Day/Forecast Featuring J.S. Floyd

 真っ赤なべた塗りに白の幾何学模様が散らばった紙ジャケ。見るからに〝サンタ〟な今作は、ロサンゼルス産のソウル豊かなクリスマスソング・カバー集だ。スムース・ジャズを基盤にファンクやソウルを織り交ぜたバンドで、メンバーはキーボードのスタッフォード・フロイドとボーカルもこなすギターのジョナサン・フロイド(ん? 兄弟かな?)。最近存在を知ったばかりだからよくわからないが、ForeCastというのは元は彼らのバンド名だったが、その後それがレーベル名になったのだろう。で、ボーカルで女性のパム・ウォーカー(おそらくこの人もレーベル内のアーティストか)も参加。

 正直、Amazonの海外マーケットプレイスから届いて2週間くらい経つが、ほとんど聴いていない(w)。というのも、はじめyoutubeで(下の)彼らのライブ動画を見つけて、僕好みのジャズ・ファンクだったので購入を決めたんだけど、いざ届いたのを聴いてみると、思いの外ソウル色が強すぎて面食らってしまったのである。感触としては、70年代のソウル・ポップスの延長線上にあるような、もしくは90年代後半からのニュー・クラシック・ソウルの類いがにおう仕上がり。ともかくソウルがベースにあるように思う。

 

 たしかにクリスマスソングが題材なのだからスムージーでアットホームな装いになるのは頷ける。が、それでいったら、それこそラサーン・パターソンのクリスマスソング集がうってつけなのだが、それには個人的に及ばなかったことになる。

 ともあれ、ファンク色はあまりなく、その代わりソウルをベースにスムーズ・ジャズのうすら匂いがただよう落ち着いた内容になっている。1曲1曲の分数も短く、10曲とコンパクトにまとまった手軽感があるといえるだろう。肩の力が抜けたキーボードに、あかるい(ロサンゼルス的?)パーカッションとギターが心地よい。

 上にあげたライブ動画気が入った方は1stアルバムの『Did You Hear That?』を。

 おそらく春になったら堰を切ったように聴くことを期待して(w)、まずは今日はこれにて。

 

あるべき日本語のカタチーー高校生のための文章読本

 

 『高校生のための文章読本』(筑摩書房)

 タイトルの字義通り文章読本である。翻訳を含めた、小説、エッセイ、論説など1篇2、3ページ程度ののを70篇集めたものだ。タイトルの『高校生のための~』だけあって、1篇終わるごとに、よくある国語的な問いが設けられ、別冊でその解説をながめる作りになっている。つまり本冊と別冊の「双剣」。で、例によって文例より解説文のほうが往往にして長い(w)。次の1篇になると、つい気構えをしてしまう。

 とうに成人した僕からするとやっぱり参考書や問題集を想起せざるを得なかったわけだが、たいへん充実した内容だった。『高校生のための~』断わりがありはするものの、選び抜かれた1篇1篇が他の文章読本のたぐいでは剰り採用されないようなものばかりなうえに、数多くのが凝縮された言葉で綴られた1パラグラフのために、得した気分になる。ドストエフスキーや漱石、バルトや村上春樹など大作家はもちろんだが、変わり種として理学博士の中村浩氏や写真家の土門拳氏や染織家の志村ふくみ氏なども紹介されていることに注目した。それぞれの生業に裏付けられた着眼点でモノや景色を切り取る文章は、一種の生々しさや幻想的な心地よさを持っている。読者はつい、それとなく頷いてしまう。そんな魔術を孕んだ良質の文章がえらに抜かれている。

 そのなかでも個人的に気に入ったのが朝永振一郎氏の『庭にくる鳥』。恥ずかしくも、僕ははじめて氏の存在を知ったわけであるが、物理学者だそうだ。ノーベル賞受賞者だそうだ。ちょっと引いてみたい、

 

 庭に作った鳥のえさ代に冬は毎日りんごを半分置くことにした。そうすると、ひよどりやむくどり、おながなどがそれを食べにやって来る。半分のりんごはだいたい一日でたべつくされるが、その代わり彼らは台の上や下にふんを残していく。
 そのふんの中には、丸いのや長いのや大きいのや小さいのや、何か植物の種子が入っている。それでそれを集めて保存し、四月ごろに鉢にまく。そうすると入梅のころからいろいろなものの芽が出てくる。
 ふた葉のときは何の芽かわからないが、本葉が出るとおよその見当はつく。そこで秋ごろまで待つと、もうはっきり何であるかがわかる。そのようにして、いままでに生えたものの名をならべると次のようなものがある。
 ツタ。アオキ。ネズミモチ。イヌツゲ。ビナンカヅラ。ナツメ。オモト。シュロ。ツルバラ。
 どれもこの辺のあちこちに見られる植物である。ツタとアオキが圧倒的に多いのは、この二つがうちの庭にあって、冬たくさんの実をつけるからだろう。このはなしをある人にしたら、タヒチ島やヒマラヤにしか生えない植物でもでてきたらおもしろいのだがなあ、といわれた。

 

 本書に掲載してあるうちの、およそ半分を引用した。出典は『庭にくる鳥』からだそうなので、気になったら方はこちらのほうもチェックするといいでしょう。

 

 さて、ここの文章の特色は(いや特色とはまったくの対義語にあってもおかしくない)〝抑制〟にある。抑制とはつまり、一番の要素は、あきらかに語り手の存在が字面から消えていることだ。引用文全体において、文脈上、一人称「わたし」らしき語り手が居ることは間違いないが、字面上、「わたし」が登場しない。引用していないその後の文章にも、一度としてつかわれていない。にも拘らずだ。にも拘らず、「わたし」が水先案内人として、読み手をエッセイという形式を借りた物語にみちびいてくれる感覚がつたわってくる。なんだか、ほんとうに、縁側に腰を据えて村の古老にその土地のことをうかがっているようだ。

 読み手は、えさ代に「毎日りんごを半分おいて」ある映像がうかび、いつとなく、ひよどりなどの小鳥たちが「それを食べにやって来る」光景を眼の当りにし、また小鳥たちは台のあちこちに「ふんを残していく」。なるほど、ふんには「植物の種子が入ってる」のかとなり、その途端にそれを「鉢にまく」語り手のさも造作のない行為についハッとなる。あとは「入梅」を待つのみなのだ……

 と、実際感と落ち着きがつたわる老練な文章がつづく。体裁上「わたし」が居ないことで、読み手がスッと物語にはいり込む余地が増すのだ。

 別段気取ったところもなく、たしかに珍しい文章ではないわけで、とりわけ日本では伝統化、というより慣習化したエッセイ風の書き方なのだが、この文章はあまりに抑制の利いているので、習作にうってつけの作品だ。むろん、「わたし」を抜きすることだけで完結した構成ができあがるわけではない。

 それは第一に、許す限り、ひらがなに開いた言葉遣いになっていること。これは間違えると小学生の作文のようになってしまうので、けっこうなセンスが求められるところだ。

 また、一文一文がみじかいことも見逃せない。生熟れな書き手は、拗れた文を書こうとしてつい長い文をよしとしてしまう嫌いがある(かくいう僕も昔はそうだった〝いや、いまでもか?〟)。が、成熟した書き手は、肩の力が抜け、平明な文にまとめるものであり、朝永氏の文はまさにそれなのだ。

 三つ目は、叙情ではなく叙事であるから、まったく抵抗なく読み手を引き寄せること。一貫としてことの成り行きを淡淡と述べていくことでしか生まれない、映像感や躍動感がある。これは「リズムのある文章」であることにも繋がることであって、またもうひとつそのリズムの生まれる構造があることに注目したい。

 もしかしら偶然なのかもしれないが、「ツタ……」の箇所を別にすれば、引用した各段落は3文で刻まれているということだ。一文をコンパクトにした上で、それを三度つづける。一見、どうってことない作りかもしれないが、三文、コンパクトな文律の段落が4つつづくと一種の準備体操のような、順応を呼び起こす働きを持つ。それに人に伝えたいことを短い文章で、しかも一定の文数におさめて書いていくというのは分相応の技術が必要なのだ。

 最後に、その一段落三文律にふかく関連して。(再び)「ツタ……」を別にして考えると、引用のパラグラフは全部で一二の文数にわれていることになるわけで、それぞれの文尾を確認してほしい。次のようになるはずだ。

 

1~した
2~来る
3~いく
4~いる
5~まく
6~くる
7~つく
8~わかる
9~ある
10~ある
11~だろう
12~いわれた

 

 どうだろうか。2~10まではすべて「-u」で終わる。一般的には、おなじ調子の文尾がつづくと文章が単調になってあまり良しとされないが、この場合はむしろリズムを作り出している車輪のようなもので、連続的であれば連続的であるほど効果的に働くようなっている(まあ、限度と場合もあるだろうが)。で、1は導入部にあたり、読み手に「提示」する意味合いの「-a」過去形で、11、12でこれまでの素っ気ないリズムに「予感」と「展開」を与える変化の意味合いが込められている。はたして、引用外の文章は「展開」に連なるのだが、気になる方は本書を読んでほしいと思う。

 文章は、こうやったら必ずこうなる、といものではないことは当然だが、おおよそ、それなりの技術は会得し自分なりに構築することで、それ相応のレトリックの必然性をみずから作っていかなければいけないのであって、またそれは可能なのである。そう試行錯誤することが意思の伝達(コミュニケーション? と読んでいいものなのか)であって、人生そのものなのだ。おっ、なんかそれっぽい〆になった(w)

お笑い事件簿ーー笑いのセンス

 

 『笑いのセンス 日本語レトリックの発想と表現』中村明 (岩波現代文庫)

 季刊誌『考える人』(2012年夏号)で取り上げられていて、つい気になって注文したものだ。それには「笑い体系表」なる挿図が載ってあり、二段組みの字面のなかで一際目を引いた。
 肝心の本書は文章読本的な体裁になっていて、半分ほど読んで、投げ出してしまった。てっきり僕は、自然科学的なアプローチで笑いを体系化していく作りになっているのと期待して読み進めていくと、立派な文章読本であった(w)。まあ、よく考えれば(考えなくとも)副題にしっかり『~日本語レトリックの発送と表現』と書かれているわけだし、前述の『考える人』もそういった体裁だったわけだから当然で、Amazonのカートにながく居すぎたせいで無理解に購入した僕が悪い。


 前半数十ページほどは、たしかに、「笑い体系表」をめぐって論理的に体系化していく仕立てになっているので、楽しめたわけだが、その後はいささか冗長に感じてしまった。というのも、一般的な修辞法や落語や漫才、小説といったジャンルごとに延々と「笑える」文章「笑える」挿話を紹介するのだ。そこへ持ってきて、いちいち「~するところがおかしい」「~ここが笑えるポイントである」などと形式的に講釈するのだから、なんだか萎えてくる。よっぽど高度で隠喩的な状況説明ならまだしも、たいていが読めば8解ることを、丁寧に10解説するわけだ。
 それもこれも裏を返せば、幾つもの「笑える」エピソードを膨大な作品から洗いだし抄出していることになるから、著者の碩学と丹心が活字いっぱいに感じてくる。なにせ、半分読んだだけで50を越す題材や資料を引き合いに出しているのだから。完読を断念してから、ぱらぱらと頁を繰っていくと、はたしてその調子で題材を枚挙していたので、その様相にはある意味頭が上がらない。と、まあ、少なくとも僕にはお腹いっぱいだった。
 むろん、同じ理由から文章読本としては興味深い著書だろう。古今東西の物語を題材に、豪快な笑いから繊細微妙な笑いまで、品揃えバツグンの挿話群を漁っていけるのだ。畢竟、「お笑い事件簿」的な副題でもおかしくない、いえるかな。それに時間に余裕があったのなら、存分(存外?)に楽しめたかもしれないと、いまになって思う。

いしき?むいしき?のレトリック——論文の書き方

 『論文の書き方 』澤田昭夫(講談社学術文庫)  

 この本はタイトル通り論文の書き方のレトリック本であるから、直前に読んだ『理科系の作文技術』の内容を反復するところが多かったので、大要は省きたいと思う。それにどちらかというと本書は資料の整理の仕方や読み解き方など準備段階や補強技術に重点を置いているとあって、いささか専門性が高いので僕の書きたいことから少しずれている。たしかに通して読んでいて実際的な叙述がつづき、たいへん面白かったのだが、今回ちょろっと紹介するのは「付録」から。
 付録には『誤った論理』という節が割かれていて、とても興味深い。十数通り掲載されているなかから、たとえば、

 ――多問  複数の問いが含まれているのに、ひとつの問いであるかのように構成された問いかけ。
 「君はいつから奥さんをなぐるのをやめたか」

 なるほど。この問いかけには「君」が「奥さんをなぐ」ったことを大前提(決めつけ)とした上で、「いつから」それをはじめたのか、という問いが表面的に存在する。ここで注意したいのが、あくまで「いつから」は誘い水であって、核心は往往にして「奥さんをなぐ」ったかどうかということ。テレビドラマの刑事が惚けた面をして詰問する手法だ。卑怯といえば卑怯だし、狡猾といえば狡猾だし、陳腐といえば陳腐だし、手堅いといえば手堅い手法だ。ただ『誤った論理』だけに正攻法とはいえないやり口だから、実生活で使う場合は慎重に努めたいものだ。

 ――聴衆煽動 論議の代わりに「自由」、「民主」、「ファシズム」、「反動」、「共産主義」、「黄色人種」などというスローガンを用いて聴衆の好感や反感、恐怖心を煽動したり、人種、民族、階級、政党、宗派の偏見や党派心に訴えて説得する

 とある。これに非常に似た例ではあるが、僕はフレーズで批判するのが大嫌いなのである。というのは、ある事柄の一部分・一側面で、片言隻句で論って、あたかもそれが総体的な批評であるかのように仕立てることだ。場合によっては、一側面ですらない妄言ででっち上げるのも見かける。たとえば、尖閣諸島竹島を他国からの妨害に物理的に対処しなければいけないという議論が持ち上がると、ここぞとばかりに「軍国主義!」と発狂する人たち。(むしろ逆に)反原発デモを見るにつけて「サヨク的」と嘲笑うばかりの人たちなど。もっと身近な例でいえば、中級のレストランで飛び抜けて高い酒を頼んでいる客に出くわすと「けっブルジョアめ」と敵視したり、漫画やゲームに夢中になっていると「現実と虚構」云々、さらに「人殺しを助長する商品」とレッテルを貼る、単純無理解な行為。どんな事柄にせよ、揚げ足を取ることほど、ラクチンなことはない。
 最後に、ぼんやり聞くとつい頷いてしまいそうだが、少し考えてみるとアレって思う二つの誤謬。

 ○前件否定
 ――もし彼がガンにかかっていたら、あと一年で死ぬだろう。しかるに彼はガンにかかっていない。それゆえ彼は一年以内に死ぬことはない。
 ○後件肯定
 ――もしこの本が有益なら、よく読まれるだろう。しかるにこの本はよく読まれている。ゆえにこの本は有益である。

 この二つは訝かしい。まずはじめの前件否定でいえば、「彼」はたしかに「ガンにかかっていな」くとも、それ以外の病気などで「一年以内に死ぬ」可能性があるからだ。次に後件肯定はというと、「この本」はたしかに「よく読まれている」本だったとしても、それ以外の視座を踏まえていないため「この本は有益である」とは断言できないからだ。ちなみに「前件」「後件」とはどこを指すのかというと、「前件」は「もし彼がガンにかかっていたら」と「もしこの本が有益なら」で、「後件」は「あと一年で死ぬだろう」と「よく読まれるだろう」だ。
 で、具体的に、論理構造としてどこが間違っているのか。それを考えるに、そもそも「前件否定」と「後件肯定」には「前件肯定」と「後件否定」という正しい論理が先立っている、ということが有効だろう。ざっと説明したい。素人知識なので拙い説明がつづいているが、もう少しで終わるのでもう少し辛抱していただきたい。「前件肯定」はwikipediaに載っている例が実に平明だったのでそれを引用する。「後件否定」は自作である(w)。

 ○前件肯定
 今日が火曜日なら、私は働きに行く。今日は火曜日だ。だから、私は働き行く。
 ○後件否定
 太郎が喫煙者なら、彼は煙草を常備している。太郎は煙草を常備していない。だから、太郎は喫煙者でない。

 金欠なんじゃないの? というツッコミはやめていただきたい(w)。常識的に考えれば喫煙者は「継続的な喫煙者」であるから、一日でもやめたらもう喫煙者でない(w)。まあ、とかく、論理的には正しいので話を進める。
 いま紹介した論理はそれぞれ次のような形式を取る、


 ○前件肯定
 P(前件)ならばQ(後件)である。Pである。だから、Qである。
 ○後件否定
 P(前件)ならばQ(後件)である。Qは偽である。だから、Pは偽である。

 いいかえれば、前者は「肯定によって肯定を導く」で、後者は「否定によって肯定を導く」になる。そこで大事なのは、前者はP(前件)を肯定することによって結論を肯定する、後者はQ(後件)を否定することによって結論を肯定する、ということだ。つまり、第一の前提を「肯定」的な第二の前提で論証したい場合は「前件」を「肯定」、また第一の前提を「否定」的な第二の前提で論証したい場合は「後件」を「否定」。
 (※「後件否定」は「Pは偽である」と結んでいるのだから「否定によって否定を導く」の間違いではないか、という指摘があるかもしれない。が、それは間違いで、むしろ「Pは偽である」という結びが「真(肯定)」であることを論証したのだから、「否定によって肯定を導く」が正しい。もしくは第一前提(含意)の「太郎が喫煙者なら、彼は煙草を常備している」とは裏を返せば「太郎が非喫煙者なら、彼は煙草を常備していない」という前提をめぐる論証でもあるのだから、結びが「太郎は喫煙者でない」に落ち着いて、はたして「肯定」された、読み方も出来るのだけれど……そもそもロジック自体が西洋の発明なわけで、奴らの思考回路の術中に嵌まっている感はぬぐえない……)
 
 では、「もし彼がガンにかかっていたら――」と「もしこの本が有益なら――」の第一前提をつかって、正しい論証を試みてみよう。前者は「後件否定」に、後者は「前件肯定」が適切か。

 ○後件否定
 ――もし彼がガンにかかっていたら、あと一年で死ぬだろう。しかるに彼は一年で死なない。それゆえ彼はガンにかかっていない。
 ○前件肯定
 ――もしこの本が有益なら、よく読まれるだろう。しかるにこの本は有益だ。ゆえにこの本はよく読まれている。

 どうだろうか。どちらの論証も正しい。前者に関しては見事に説得力のある論理的構文に変わった。ただ、後者に関しては、「よく読まれている」がいささか曖昧模糊なため、前提が弱い。今更、ではあるが。それは「○○年のベストセラー」なのか「云十年来、読み継がれている本」なのかでだいぶ違う。つまり『もしドラ』 なのか『ライ麦畑でつかまえて』なのか、と。「もしドラ」は刊行から3,4年と、まだ日が浅いため評価がしにくいが、「ライ麦畑でつかまえて」は刊行から60年以上。いまだ売れ続けている。論証の進め方に問題がなくとも、前提が主観に頼るものだったり、抽象的な言い回しだったりすると元も子もない。


 さて、こんなところか。4つの誤謬と2つの妥当な論理を考えてきたわけだが、『論文の書き方』の付録にはもっと沢山の論理が載っているし、なにより本編はもう少しマクロの視点で論文構造を解説している。著者の澤田昭夫氏の専門は歴史学のようなので、文献史学的な方法論でしつこく比較・検証していくやり方を、これも事細かに紹介している。人文系の論文を書きたい方にはうってつけの本かもしれない。