blog〝評論らしき某日〟

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はじめまして&「意見」と「事実」をめぐってーー理科系の作文技術

今エントリーが初なので、よろしくお願いします。まず、手はじめにコレ、

 

 『理科系の作文技術 』木下是雄(中公新書)

 理科系の論文の書き方を最大の目的にしながらも、一般的な我々の日常にも共通する伝える作法を、非常に丁寧に解説された本である。論文の論理的な構成の仕方、非逆茂木の文章と重点先行主義の勧め、その他文献引用や図と表に関して、など主立った事柄は他の個人サイトでも考察されていると思うので個人的にひっ掛かった箇所をひとつ。

 

 「意見」と「事実」の違い。
 皆さんはある文章を読んでいて、またはある人と話していて「何か」嫌な感じを受けたり、「何か」きな臭いと思ってしまうことはないだろうか。つまり、書き手(話し手)が述べているニュアンスと内容に違和感があるということだ。齟齬といってもいいかもしれない。ニュアンスというのは文体であり、話し振りであり、内容というの書き手(話し手)の伝えたい核となるところだ。ちょっと大袈裟ではあるが、例をひとつ、


 昨日帰宅すると、蒲団がカウチに深く腰掛け、ご機嫌に僕のたばこを燻らしていた。というのは、蒲団は禁煙に耐えられなかったのだ。

 些かふざけすぎた感はあるが、つまり、「意見」なのか『事実』なのかさっぱりだということだ。「ニュアンス」は一貫として客観的な調子なのに、「内容」は甚だ穏やかじゃない。まず、蒲団は腰掛けないし、ご機嫌もへったくれもない。そしてなによりも、たばこを吸うはずがない。火事になる。が、その気配はない。にも拘らず先の文章は理解に苦しむ事実の大風呂敷をさらりと回収しては、「禁煙に耐えられなかったのだ」と決めつけて終わる。
 そんなことをわざわざ説明するのも馬鹿馬鹿しいわけだが、ふだん我々の日常生活でも自分の主観的ないち「意見」を、あたかも皆さんご存じの「事実」のようにすり替えて書かれている(話されている)のに触れることは少なくないと思う。多くの場合、書いている(話している)側に悪意はないだろうが、ではそういったミスもしくは詐術はどのようにしてうまれるのか。それは、ごく瑣末なことだが、それゆえに忘れがちな文章上の、会話上のエチケットなのだ。かくいう僕も日常的に無意識的に、稀に必要とあらばくだらない虚栄心で超意識的に行なっているんだけど(w)。ともかく、本書から一部引いてみたい。

 (1)私は、試料の温度が下がったのは輻射による放熱のためであると考える。
 (2)私は、この場合には拡散よりも対流の効果が大きいと想定する。
 (3)私は、故障の原因は接続ミスであったと推論する。
 (4)私は、これが最良の方法であると思う。
 (5)私は、アジはうまい魚だと思う。
 (6)私は、この色はあの色より赤っぽいと感じる。


 以上のすべての文例は「意見」だ。構造としては、頭(私は)――胴体(内容)――足(と考える、と想定するなど)になっていることが解る。では、頭と足をそっくり取り除いて胴体だけにしてみるとどうだろう、

 (1′)試料の温度が下がったのは輻射による放熱のためである。
 (2′)この場合には拡散よりも対流の効果が大きい。
 (3′)故障の原因は接続ミスであった。
 (4′)これが最良の方法である。
 (5′)アジはうまい魚だ。
 (6′)この色はあの色より赤っぽい。

 (1)~(3)は明らかに「意見」だったのに対して、(1′)~(3′)は果たして「事実」になっている。やはり「意見」だった(4)~(6)はというと、依然として(4′)~(6′)でも「意見」のままだ。共に「意見」だった(1)~(3)群と(4)~(6)群は、頭と足を取り除くことによって、差別化された。では具体的に、なぜ、違いがでたのか。それは木下氏は、
 
 私は、(4′)~(6′)では主張の核となることばが修飾語(句):「最良の」、「うまい」、「赤っぽい」であることがポイントだと考える。修飾語(形容詞、副詞)の大部分は、主観によってえらばれ、使われるもの――すなわち判断を表わすもの――である

と意見している。つづけて氏は、意見の記述の原則として、

 (a)意見の内容の核となることばが主観的に依存する修飾語である場合には、基本形の頭(私)と足(と考える、その他)を省くことが許される。
 (b)そうでない場合には頭と足を省いてはいけない。

 としている(※理科系の文書では(b)でもなるたけ頭をつけて責任の所在をはっきりした方がいい、と氏は併せて後述していることも、一応記しておく)。
 どうだろう。さしあたって「意見」と「事実」の検証はこんなところか。大づかみの結論でいうと、

 

 ○「意見」と「事実」は明確にわけて受け手に示す、これを手懸りに、
 ○「意見」のうち、おおむね客観的な考察を前提にしているものの、少しでも希望的観測を含む内容には主格「一人称」ではじめてそれに掛かる述語(足)を補う。また、主観に頼るところが大きい修飾語を冠った内容はそのままで示してもよい。
 ○「事実」は兎角、断定的に言い切る。それに限る。事実ならなにに恥じることなく自信を持っていえばいいのだ。


 結論がでたので、ざっと考察したい。理科系という専門性の強いレベルでなく、一般的な日常レベルに立ち返ると、出来る限り主語を無くした文章にした方がわかりやすいと考える。いちいち主語、とりわけ一人称の「わたしは~」「ぼくは~」と頻発すると、しつこい。日本語としてもそのほうが美しい。主語がなくとも、充分論理的で簡明な文章になる。前後の文脈とマクロな構成をそれとなく頭に入れておけばいいのだ。「意見」と「事実」の区分けは、おおむね、氏のいう「主観的に依存する修飾語」の有り無しと述語や語尾のニュアンスの如何で判断すればいいのではないかと思う。詳しくはいずれ別の機会でエントリーしたいと考えている。
 
 超余談ではるが、煙草を断って今日で一週間が経った。ブログ開始と非喫煙者の「僕」がほぼ同時に進行したことを自戒の意味を込めてここでことわっておきたい。別に悪いことをしたわけではないが。
 ともあれ、ブログが長く続くよう努めていきたいと思うので、よければ、時どきでも当ブログに立ち寄っていただけたら、非常にうれしい。