blog〝評論らしき某日〟

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いしき?むいしき?のレトリック——論文の書き方

 『論文の書き方 』澤田昭夫(講談社学術文庫)  

 この本はタイトル通り論文の書き方のレトリック本であるから、直前に読んだ『理科系の作文技術』の内容を反復するところが多かったので、大要は省きたいと思う。それにどちらかというと本書は資料の整理の仕方や読み解き方など準備段階や補強技術に重点を置いているとあって、いささか専門性が高いので僕の書きたいことから少しずれている。たしかに通して読んでいて実際的な叙述がつづき、たいへん面白かったのだが、今回ちょろっと紹介するのは「付録」から。
 付録には『誤った論理』という節が割かれていて、とても興味深い。十数通り掲載されているなかから、たとえば、

 ――多問  複数の問いが含まれているのに、ひとつの問いであるかのように構成された問いかけ。
 「君はいつから奥さんをなぐるのをやめたか」

 なるほど。この問いかけには「君」が「奥さんをなぐ」ったことを大前提(決めつけ)とした上で、「いつから」それをはじめたのか、という問いが表面的に存在する。ここで注意したいのが、あくまで「いつから」は誘い水であって、核心は往往にして「奥さんをなぐ」ったかどうかということ。テレビドラマの刑事が惚けた面をして詰問する手法だ。卑怯といえば卑怯だし、狡猾といえば狡猾だし、陳腐といえば陳腐だし、手堅いといえば手堅い手法だ。ただ『誤った論理』だけに正攻法とはいえないやり口だから、実生活で使う場合は慎重に努めたいものだ。

 ――聴衆煽動 論議の代わりに「自由」、「民主」、「ファシズム」、「反動」、「共産主義」、「黄色人種」などというスローガンを用いて聴衆の好感や反感、恐怖心を煽動したり、人種、民族、階級、政党、宗派の偏見や党派心に訴えて説得する

 とある。これに非常に似た例ではあるが、僕はフレーズで批判するのが大嫌いなのである。というのは、ある事柄の一部分・一側面で、片言隻句で論って、あたかもそれが総体的な批評であるかのように仕立てることだ。場合によっては、一側面ですらない妄言ででっち上げるのも見かける。たとえば、尖閣諸島竹島を他国からの妨害に物理的に対処しなければいけないという議論が持ち上がると、ここぞとばかりに「軍国主義!」と発狂する人たち。(むしろ逆に)反原発デモを見るにつけて「サヨク的」と嘲笑うばかりの人たちなど。もっと身近な例でいえば、中級のレストランで飛び抜けて高い酒を頼んでいる客に出くわすと「けっブルジョアめ」と敵視したり、漫画やゲームに夢中になっていると「現実と虚構」云々、さらに「人殺しを助長する商品」とレッテルを貼る、単純無理解な行為。どんな事柄にせよ、揚げ足を取ることほど、ラクチンなことはない。
 最後に、ぼんやり聞くとつい頷いてしまいそうだが、少し考えてみるとアレって思う二つの誤謬。

 ○前件否定
 ――もし彼がガンにかかっていたら、あと一年で死ぬだろう。しかるに彼はガンにかかっていない。それゆえ彼は一年以内に死ぬことはない。
 ○後件肯定
 ――もしこの本が有益なら、よく読まれるだろう。しかるにこの本はよく読まれている。ゆえにこの本は有益である。

 この二つは訝かしい。まずはじめの前件否定でいえば、「彼」はたしかに「ガンにかかっていな」くとも、それ以外の病気などで「一年以内に死ぬ」可能性があるからだ。次に後件肯定はというと、「この本」はたしかに「よく読まれている」本だったとしても、それ以外の視座を踏まえていないため「この本は有益である」とは断言できないからだ。ちなみに「前件」「後件」とはどこを指すのかというと、「前件」は「もし彼がガンにかかっていたら」と「もしこの本が有益なら」で、「後件」は「あと一年で死ぬだろう」と「よく読まれるだろう」だ。
 で、具体的に、論理構造としてどこが間違っているのか。それを考えるに、そもそも「前件否定」と「後件肯定」には「前件肯定」と「後件否定」という正しい論理が先立っている、ということが有効だろう。ざっと説明したい。素人知識なので拙い説明がつづいているが、もう少しで終わるのでもう少し辛抱していただきたい。「前件肯定」はwikipediaに載っている例が実に平明だったのでそれを引用する。「後件否定」は自作である(w)。

 ○前件肯定
 今日が火曜日なら、私は働きに行く。今日は火曜日だ。だから、私は働き行く。
 ○後件否定
 太郎が喫煙者なら、彼は煙草を常備している。太郎は煙草を常備していない。だから、太郎は喫煙者でない。

 金欠なんじゃないの? というツッコミはやめていただきたい(w)。常識的に考えれば喫煙者は「継続的な喫煙者」であるから、一日でもやめたらもう喫煙者でない(w)。まあ、とかく、論理的には正しいので話を進める。
 いま紹介した論理はそれぞれ次のような形式を取る、


 ○前件肯定
 P(前件)ならばQ(後件)である。Pである。だから、Qである。
 ○後件否定
 P(前件)ならばQ(後件)である。Qは偽である。だから、Pは偽である。

 いいかえれば、前者は「肯定によって肯定を導く」で、後者は「否定によって肯定を導く」になる。そこで大事なのは、前者はP(前件)を肯定することによって結論を肯定する、後者はQ(後件)を否定することによって結論を肯定する、ということだ。つまり、第一の前提を「肯定」的な第二の前提で論証したい場合は「前件」を「肯定」、また第一の前提を「否定」的な第二の前提で論証したい場合は「後件」を「否定」。
 (※「後件否定」は「Pは偽である」と結んでいるのだから「否定によって否定を導く」の間違いではないか、という指摘があるかもしれない。が、それは間違いで、むしろ「Pは偽である」という結びが「真(肯定)」であることを論証したのだから、「否定によって肯定を導く」が正しい。もしくは第一前提(含意)の「太郎が喫煙者なら、彼は煙草を常備している」とは裏を返せば「太郎が非喫煙者なら、彼は煙草を常備していない」という前提をめぐる論証でもあるのだから、結びが「太郎は喫煙者でない」に落ち着いて、はたして「肯定」された、読み方も出来るのだけれど……そもそもロジック自体が西洋の発明なわけで、奴らの思考回路の術中に嵌まっている感はぬぐえない……)
 
 では、「もし彼がガンにかかっていたら――」と「もしこの本が有益なら――」の第一前提をつかって、正しい論証を試みてみよう。前者は「後件否定」に、後者は「前件肯定」が適切か。

 ○後件否定
 ――もし彼がガンにかかっていたら、あと一年で死ぬだろう。しかるに彼は一年で死なない。それゆえ彼はガンにかかっていない。
 ○前件肯定
 ――もしこの本が有益なら、よく読まれるだろう。しかるにこの本は有益だ。ゆえにこの本はよく読まれている。

 どうだろうか。どちらの論証も正しい。前者に関しては見事に説得力のある論理的構文に変わった。ただ、後者に関しては、「よく読まれている」がいささか曖昧模糊なため、前提が弱い。今更、ではあるが。それは「○○年のベストセラー」なのか「云十年来、読み継がれている本」なのかでだいぶ違う。つまり『もしドラ』 なのか『ライ麦畑でつかまえて』なのか、と。「もしドラ」は刊行から3,4年と、まだ日が浅いため評価がしにくいが、「ライ麦畑でつかまえて」は刊行から60年以上。いまだ売れ続けている。論証の進め方に問題がなくとも、前提が主観に頼るものだったり、抽象的な言い回しだったりすると元も子もない。


 さて、こんなところか。4つの誤謬と2つの妥当な論理を考えてきたわけだが、『論文の書き方』の付録にはもっと沢山の論理が載っているし、なにより本編はもう少しマクロの視点で論文構造を解説している。著者の澤田昭夫氏の専門は歴史学のようなので、文献史学的な方法論でしつこく比較・検証していくやり方を、これも事細かに紹介している。人文系の論文を書きたい方にはうってつけの本かもしれない。