blog〝評論らしき某日〟

読書を生かじり。映画を生かじり。JAZZ・SOULを生かじり。いささか恣意的な、おのれの理解を深めるための実験中ブログ

あるべき日本語のカタチーー高校生のための文章読本

 

 『高校生のための文章読本』(筑摩書房)

 タイトルの字義通り文章読本である。翻訳を含めた、小説、エッセイ、論説など1篇2、3ページ程度ののを70篇集めたものだ。タイトルの『高校生のための~』だけあって、1篇終わるごとに、よくある国語的な問いが設けられ、別冊でその解説をながめる作りになっている。つまり本冊と別冊の「双剣」。で、例によって文例より解説文のほうが往往にして長い(w)。次の1篇になると、つい気構えをしてしまう。

 とうに成人した僕からするとやっぱり参考書や問題集を想起せざるを得なかったわけだが、たいへん充実した内容だった。『高校生のための~』断わりがありはするものの、選び抜かれた1篇1篇が他の文章読本のたぐいでは剰り採用されないようなものばかりなうえに、数多くのが凝縮された言葉で綴られた1パラグラフのために、得した気分になる。ドストエフスキーや漱石、バルトや村上春樹など大作家はもちろんだが、変わり種として理学博士の中村浩氏や写真家の土門拳氏や染織家の志村ふくみ氏なども紹介されていることに注目した。それぞれの生業に裏付けられた着眼点でモノや景色を切り取る文章は、一種の生々しさや幻想的な心地よさを持っている。読者はつい、それとなく頷いてしまう。そんな魔術を孕んだ良質の文章がえらに抜かれている。

 そのなかでも個人的に気に入ったのが朝永振一郎氏の『庭にくる鳥』。恥ずかしくも、僕ははじめて氏の存在を知ったわけであるが、物理学者だそうだ。ノーベル賞受賞者だそうだ。ちょっと引いてみたい、

 

 庭に作った鳥のえさ代に冬は毎日りんごを半分置くことにした。そうすると、ひよどりやむくどり、おながなどがそれを食べにやって来る。半分のりんごはだいたい一日でたべつくされるが、その代わり彼らは台の上や下にふんを残していく。
 そのふんの中には、丸いのや長いのや大きいのや小さいのや、何か植物の種子が入っている。それでそれを集めて保存し、四月ごろに鉢にまく。そうすると入梅のころからいろいろなものの芽が出てくる。
 ふた葉のときは何の芽かわからないが、本葉が出るとおよその見当はつく。そこで秋ごろまで待つと、もうはっきり何であるかがわかる。そのようにして、いままでに生えたものの名をならべると次のようなものがある。
 ツタ。アオキ。ネズミモチ。イヌツゲ。ビナンカヅラ。ナツメ。オモト。シュロ。ツルバラ。
 どれもこの辺のあちこちに見られる植物である。ツタとアオキが圧倒的に多いのは、この二つがうちの庭にあって、冬たくさんの実をつけるからだろう。このはなしをある人にしたら、タヒチ島やヒマラヤにしか生えない植物でもでてきたらおもしろいのだがなあ、といわれた。

 

 本書に掲載してあるうちの、およそ半分を引用した。出典は『庭にくる鳥』からだそうなので、気になったら方はこちらのほうもチェックするといいでしょう。

 

 さて、ここの文章の特色は(いや特色とはまったくの対義語にあってもおかしくない)〝抑制〟にある。抑制とはつまり、一番の要素は、あきらかに語り手の存在が字面から消えていることだ。引用文全体において、文脈上、一人称「わたし」らしき語り手が居ることは間違いないが、字面上、「わたし」が登場しない。引用していないその後の文章にも、一度としてつかわれていない。にも拘らずだ。にも拘らず、「わたし」が水先案内人として、読み手をエッセイという形式を借りた物語にみちびいてくれる感覚がつたわってくる。なんだか、ほんとうに、縁側に腰を据えて村の古老にその土地のことをうかがっているようだ。

 読み手は、えさ代に「毎日りんごを半分おいて」ある映像がうかび、いつとなく、ひよどりなどの小鳥たちが「それを食べにやって来る」光景を眼の当りにし、また小鳥たちは台のあちこちに「ふんを残していく」。なるほど、ふんには「植物の種子が入ってる」のかとなり、その途端にそれを「鉢にまく」語り手のさも造作のない行為についハッとなる。あとは「入梅」を待つのみなのだ……

 と、実際感と落ち着きがつたわる老練な文章がつづく。体裁上「わたし」が居ないことで、読み手がスッと物語にはいり込む余地が増すのだ。

 別段気取ったところもなく、たしかに珍しい文章ではないわけで、とりわけ日本では伝統化、というより慣習化したエッセイ風の書き方なのだが、この文章はあまりに抑制の利いているので、習作にうってつけの作品だ。むろん、「わたし」を抜きすることだけで完結した構成ができあがるわけではない。

 それは第一に、許す限り、ひらがなに開いた言葉遣いになっていること。これは間違えると小学生の作文のようになってしまうので、けっこうなセンスが求められるところだ。

 また、一文一文がみじかいことも見逃せない。生熟れな書き手は、拗れた文を書こうとしてつい長い文をよしとしてしまう嫌いがある(かくいう僕も昔はそうだった〝いや、いまでもか?〟)。が、成熟した書き手は、肩の力が抜け、平明な文にまとめるものであり、朝永氏の文はまさにそれなのだ。

 三つ目は、叙情ではなく叙事であるから、まったく抵抗なく読み手を引き寄せること。一貫としてことの成り行きを淡淡と述べていくことでしか生まれない、映像感や躍動感がある。これは「リズムのある文章」であることにも繋がることであって、またもうひとつそのリズムの生まれる構造があることに注目したい。

 もしかしら偶然なのかもしれないが、「ツタ……」の箇所を別にすれば、引用した各段落は3文で刻まれているということだ。一文をコンパクトにした上で、それを三度つづける。一見、どうってことない作りかもしれないが、三文、コンパクトな文律の段落が4つつづくと一種の準備体操のような、順応を呼び起こす働きを持つ。それに人に伝えたいことを短い文章で、しかも一定の文数におさめて書いていくというのは分相応の技術が必要なのだ。

 最後に、その一段落三文律にふかく関連して。(再び)「ツタ……」を別にして考えると、引用のパラグラフは全部で一二の文数にわれていることになるわけで、それぞれの文尾を確認してほしい。次のようになるはずだ。

 

1~した
2~来る
3~いく
4~いる
5~まく
6~くる
7~つく
8~わかる
9~ある
10~ある
11~だろう
12~いわれた

 

 どうだろうか。2~10まではすべて「-u」で終わる。一般的には、おなじ調子の文尾がつづくと文章が単調になってあまり良しとされないが、この場合はむしろリズムを作り出している車輪のようなもので、連続的であれば連続的であるほど効果的に働くようなっている(まあ、限度と場合もあるだろうが)。で、1は導入部にあたり、読み手に「提示」する意味合いの「-a」過去形で、11、12でこれまでの素っ気ないリズムに「予感」と「展開」を与える変化の意味合いが込められている。はたして、引用外の文章は「展開」に連なるのだが、気になる方は本書を読んでほしいと思う。

 文章は、こうやったら必ずこうなる、といものではないことは当然だが、おおよそ、それなりの技術は会得し自分なりに構築することで、それ相応のレトリックの必然性をみずから作っていかなければいけないのであって、またそれは可能なのである。そう試行錯誤することが意思の伝達(コミュニケーション? と読んでいいものなのか)であって、人生そのものなのだ。おっ、なんかそれっぽい〆になった(w)